元婚約者との車の所有権の行きちがいで興ざめした ~社会規範と市場規範~

元婚約者との話はこれまでいくつか書いてきた。

今更ながら「嫌われる勇気」を読んでアドラー心理学にハマり、実践の難しさを知った

婚約破談を言い渡されて1月経過したので心境の変化を語っていく

 

女々しい話ではあるが、元婚約者とやり直せるならやり直したいと強く思っていた。

そのため、以前の態度を改め、アドラー心理学のエッセンスを学び、実生活で尊敬や共感・共同体感覚を意識して行動してきた。

だが今回の件で、何となく興ざめしてしまった。

加えて「元婚約者にこだわる必要性はまったくないや」とやっと思えた気がした。

 

そのことの顛末は車の所有権を巡る問題。

これで社会規範と市場規範の混同が僕の中で起こった。

以下に詳細を書いていく。

車の所有権の話

引っ越し前はお互いに車を所持していた。

関西に引っ越す際、相手の仕事がまだ決まってなかったこともあり、相手の車だけ持ってきた。

理由は僕の車がマニュアル車で、相手が運転出来なかったからだ。

 

実はその時、僕の車にはまだローンが残っていた。

運転もしないのにローンだけは払う状態。

完全に無駄金だとわかっていたが、相手の就職先が決まらない。

結局数ヶ月僕は乗りもしない車のローンを払い続けた。

最終的に相手は電車で通える就職先が見つかったため、僕は車を手放すことになる。

 

さて、婚約破棄。

これにより「車をどうするか?」という問題になった。

ほとんど相手の車は僕の通勤用となっていたため、いきなり無くなるとなるとかなり痛い。

そこで「無いと不便。もらうのは悪い気がするので、いくらかで買い取らせてもらえないか?」ということを打診した。

相手からの返事は「母親に聞いてみる」だった。

(今思えばこれも解せないのだが)

 

翌日、相手の解答は「車、別に良いって」であった。

ここで僕がミスリーディングした。

「良いって」を「(別に関西で乗る必要も無いし、完全に余分な一台だから別にお金など)良いって」と解釈してしまった。

 

今思えば僕も相当アホだと思う。

だが、これ以降、相手から具体的な車の買い取り金額などの話が一切出てきていないのも事実。

車の話は「名義変更」に関するお互いの必要な書類の話のみ。

結局出ていくまで全く金銭の話が無かったため、すっかり僕は勘違いしてしまっていた。

 

後日、荷物をとりに一度だけ僕の家に相手が来たことがある。

ちなみにこの時に、食事にでも行かないか打診したが、完全に拒否されてしまった。

僕はこの「食事の打診」に復縁の全てをかけていたため、ひどく落ち込んだ。

 

話を戻そう。

家に来た際、帰りに駅まで相手を車で送った。

その際相手が

「この車いくらで売れるんだろうね?走行距離あんまりないから意外と高いかな?」

と言ってきた。

 

その時僕は「こいつは突然何を言っているんだろう?」と思ったが、スルーした。

 

で、先日。

やっと平日に休みが取れそうだったため、相手の印鑑を取りに会いに行った。

名義変更に必須だからだ。

 

そして印鑑を受け取り、帰ろうとした際

「んじゃ同時に査定もやっといて。そしてその査定金額が出たら教えて。口座を知らせるから。そこにその査定金額を振り込んでもらって買い取りとするわ」

と言われた。

 

僕は一瞬頭の中が「???」となった。

僕「何のこと?」

相手「え、最初に買い取らせてって言ったじゃん。だからそういうこと」

僕「別に良いって、てそういう意味?てか金の話全く無かったじゃんか。(その査定してって話も初めて聞いたし)」

 

ここで僕の中で何かがプツリと切れた気がした。

怒りではない。

「虚しさ」とか「悲しさ」とか、そういった類のものであったと記憶している。

 

普段から合理性を追求している僕も、この時は一時の感情に流されてしまった。

僕「じゃあ車いいや。返すよ。名義変更もしないから、早めに引き取りにきて」

そうしてその場を後にしてしまった。

 

社会規範と市場規範の混同による興ざめ

帰りの車内、僕はとっさの自分の行動を反芻していた。

 

合理的に考えるなら、車を新たに購入するより、おそらく遥かに安い値段で車の所有権が自分になる。

通勤で電車を使えないこともないが、結構不便だ。

でも僕の勘違い&お互いの話し合い不足で、とっさの行動をとってしまったのか。

 

僕はダン・アリエリー著「予想通りに不合理」を思い出していた。

その中の節に「社会規範と市場規範」について書いてある。

 

社会規範は、わたしたちの社交性や共同体の必要性を切っても切れない関係にある。たいていほのぼのとしている。

(中略)

ふたつめの世界、市場規範に支配された世界はまったくちがう。ほのぼのとしたものは何もない。賃金、価格、賃貸料、利息、費用便益など、やりとりはシビアだ。

 

少し抽象的だが、社会規範は家族だったり友人の絆のような概念。

一方市場規範は、主に金銭のやりとりに代表されるような徹底したギブ&テイクの利害関係といってもいいかもしれない。

 

この2つの規範が混同してしまうと大変な事態になる。

本章冒頭の例えが秀逸だ。

義理の母親の家で感謝祭のディナーをごちそうになる。

豪華な料理に舌鼓、パーティーは遅くまで続いた。

その後おもむろにあなたは立ち、

「お母さん、この日のために注いでくださった愛情に、一体いくら払えばいいでしょう。三〇〇ドルくらいでしょうか?」

どう考えてもおかしいだろう。

 

社会規範が市場規範と衝突すると、社会規範が長いあいだどこかへ消えてしまうのだ。社会的な人間関係はそう簡単には修復できない。バラの花も一度ピークが過ぎてしまうともうもどせないように、社会規範は一度でも市場規範に負けると、まずもどってこない。

 

僕の中で、元婚約者は大切な人であって、出来るならやり直したいと思っていた。

そして今度こそ結婚したかった。

と思っていたのだが、どうやら事務的な車の金の話になった途端、僕の頭の中の社会規範と市場規範が混同を起こしたらしい。

 

「なんだか、もう疲れたからどうでもいいや」

と思ってしまった。

 

アドラー心理学の実践はやはり難しい

僕は今回の件で他にも学んだ点がある。

 

アドラー心理学の学びが全く自身にインストールされていないことだ。

相手を無条件に信頼し、共感する。

これはアドラー心理学の基本スタンスの1つだ。

これを本当にそれが出来ているかと問われれば、間違いなく今回の件ではノーだと言える。

 

「言うは易く行うは難し」

今回の件は契機として、今後アドラー心理学への傾倒を強めたいと改めて感じた。

 

参考文献

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