「してあげる」への不快感と嫌悪感 ~アドラー心理学を自分にインストールしよう~

「してあげる」

僕はこの言葉が大嫌いだ。

 

この「してあげる」についての不快感について考えてみた。

「してあげる」への不快感は「上から目線」にある

今日の朝礼でも「してあげる」を耳にした。

近々来日する外国人研修生の話であった。

課長より「外国人研修生が来るのですが、慣れないことも多いと思います。積極的に話しかけてあげてください」とあった。

 

うーむ、やはり僕はこの言葉が嫌いだ。

日常生活をしていれば、この「してあげる」というのはよく耳にする。

 

「これ手伝ってあげるね」とか「それ買ってあげるね」とか「守ってあげる」とか「連れてってあげる」とか

あげる、あげる、あげる、あげる、あげる、あげる、あげる、あげる

あぁ…段々とゲシュタルト崩壊してきた

 

どうにも気に入らないのは、やはり「上から目線」にあると思う。

ちょっとした恩着せがましさも感じる。

 

「わざわざあなたのためにやる」というニュアンス。

もしかしたら言っている本人からすると「敬意」を含んでいるのかもしれないが、僕は無意識な上下関係を感じてしまう。

素直に「手伝う」「買う」「守る」「連れていく」でいいじゃないか、と思うわけだ。

 

「してあげるんじゃない。てめぇがしたいからするんだ」といった知り合いのおっさん

僕にジャズを叩き込んだとあるおやじも、この「してあげる」という言葉が大嫌いだった。

 

ある飲み会の席でのこと。

先輩が「A(ある後輩)は経験が浅いから、俺たちが引っ張ってあげなきゃね」という言葉を口にした瞬間、おやじは先輩にお絞りを投げつけた

 

おやじは先輩に向かって「してあげるじゃねぇ。してあげる、なんてことは無いんだよ。全ててめぇがやりたいから、全ての行動は起こる。だからしてあげるじゃなくて、するが正解なんだよ」と言っていた。

 

その時はなるほどな、と思った。

 

が、今よくよく考えてみると、ちょっとよくわからない。

「全ての行動」が内発的だとすれば、「してあげる」という言葉は間違い、というのはわかる。

だが、それだとそもそも当人から「してあげる」という言葉が出てくるはずがない。

「してあげる」という言葉が出たのは、間違いなく本人に上下の意識があったからだ。

 

「してあげる」の僕のアドラー心理学的解釈

上下の意識、つまり人と人との関係を「縦」で見ているのだ。

勿論、僕も元体育会系出身なので、目上の人は敬う。

また後輩にも面倒見よく接しているつもりだ。

そういう体育会系らしさみたいなものは、個人的に嫌いじゃない。

 

だが、それでも人間関係を「縦」に見てはいけないと思う。

「縦」の関係から来る人間とのつながりは、尊敬という名の恐怖であり、先輩風という名の重圧であり、近しい人の間では「競争」を生む。

 

そうではなく、「縦」に見ずに「横」に見る。

これが最適だと感じる。

 

ここでいう「横」とは、ベテランに新人がタメ口をきく、とかそういうことではない。

接する相手を「人間扱い」して、相手の世界観の理解に努める。

また意見の相違があれば、相手を尊重した上で自分の意見を述べる。

社会で生活する以上、こうした「横」の関係で人と接し、信頼関係を構築していくべきだ。

このスタンスだと「してあげる」なんて言葉はまず出てこない。

 

例えば上長との会話。

あれこれ言われて、疑問を感じても言われた通りにやり、失敗したら「上長に言われた通りにやっただけ」と振り返る。

これは間違いなく「縦」の関係であり、無責任だと感じる。

疑問を感じた時点で、上長だろうが何だろうが疑問をぶつければいい。

そうして「縦」の関係に従属せず、人間扱いする「横」の関係こそ、会社、或いは社会に必要だと思う。

 

そんなことを、朝礼の「してあげる」と、同僚の無責任な態度を業務中に見て思った次第。

 

ちなみにこれはガッツリ「アドラー心理学」で学んだ画期的な人生観の一つ。

言うは易く行うは難しなんだけどね。

 

アドラー心理学に触れた記事は他にも以下

今更ながら「嫌われる勇気」を読んでアドラー心理学にハマり、実践の難しさを知った

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