純粋な日本人で無宗教の僕も聖書を読むべきか考えさせられた件

GWにずっと観ようと思っていた映画を2本観た。

「哭声」と「沈黙」だ。

 

この2本を観て、考えさせられた。

「いよいよ聖書を読まなければならないか」ということだ。

 

なぜそう思ったか。

軽く映画の紹介も踏まえ、また昔の記憶も掘り起こし、書いていくことにする。

聖書を読むべきか考えさせられた映画の1つは「哭声」

「哭声」(コクソンと読む)には愕然とした。

 

とりあえず予告編。あ、怖い要素があるので、苦手な人はスルー推奨。

それからウィキをば

哭声/コクソン

 

この映画、頼りないおっさんが呪いに巻き込まれるホラーだと思ってたら、大間違いだった。

 

僕はエンドロールが流れる中、全然映画の中身を理解出来ずにボーっとソファに座っていた。

「この映画が言いたかったことは何だろう」との思いから調べてみるとビックリ。

なんとこの映画「キリスト教」が1つのテーマだったのだ。

 

こんなの馴染みの無い僕にはサッパリわからない。

これを機に「やはり聖書、一度は読むべきかなぁ」と改めて思ったのだった。

 

「聖書は読んだほうがいい」と言っていた大学の先生

「改めて」としたが、聖書を読もうかなと思ったのは今回が初めてではない。

 

実は、大学1年の教養の授業の時、ある先生から言われたことがあるのだ。

この先生の授業は断言するが、最もつまらない授業の1つであった。

まず、先生が何をいっているのかわからない。

その先生は、僕がこれまでの人生で会った人間の中で最も滑舌の悪い人であった。

耄碌か?と思いきや、テストはガッチガチに難しいというワケのわからない授業だった…。まぁそれはいいとして…

 

ただそんな先生から聞き取れたこの言葉は忘れる事ができない。

曰く「西洋の小説などは、キリスト教を知っている前提で書かれており、その引用や似せた描写が出てきたりする。だから僕ら日本人は聖書を知っていないといけない」

 

それでもやはり「聖書」を読むのは気が進まない

何を隠そう、聖書にトライしたことは何度かある。

そしてその度に挫折した。

 

どうも聖書は気が進まなくて、同じ時間なら他の本を読んだほうがよくね?と思い、やめてしまう。

 

「バカのための読書術」で著者小谷野氏は、抽象的な考えが苦手な人を「バカ」と呼び、それらの人がすべきは「歴史を学ぶこと」と述べている。

司馬遼太郎だろうが大河ドラマだろうがマンガだろうが、何を使っても良いから歴史の大筋は知ってもらいたい。

著者の定義からして僕もまた「バカ」の一員である。

そして、この「何を使っても良いから」というスタンスは正に僕がとるべきものだと感じる。

 

そうそう、小野寺氏は宗教についても言及しており、キリスト教の入門についてこう書いている。

口語訳で読んだとしても、聖書の記述は極めて凝縮されているので、さらりと読み流すと、何も頭に残らない恐れがある。だから、この辺は犬養道子の「旧約聖書物語」「新約聖書物語」でもいいのだが、どうも重厚すぎるので、最近話題の「小説「聖書」」(徳間文庫)でもいい。何なら、ヴィデオ屋へ行って、昔の映画「十戒」を借りてきて観てもいい。

 

こうして、僕は今週末「十戒」を観ることを決めた。

これに続いて聖書に手を伸ばし、頭の片隅にでもまず基礎が入るように努力したい。

 

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