特に若い人にあまり知られていないかもしれないが、トルコは親日国である。
驚くことに、トルコのカッパドキアみたいな中心地に行けば
「お兄さん T シャツ買っていかない?」 と日本語で声をかけられ、
「Cappadocia」と書かれ、
アンニュイな人と奇岩がプリントされたとってもダサいTシャツを買わされることがある(実体験)。
中東の国で日本語でって、かなりびっくりしないだろうか。
他にも、トルコ人に聞くと「日本との絆が深い」とおっしゃる方が多い。
なぜ遠く離れた中東の国トルコと、日本は関わりがあるのだろうか。
それは遡ること約130年前、和歌山県沖で難破したトルコの船を日本が助けたことに由来している。
僕はこの話を数年前に知り、非常に気になっていた。
ふと、大阪の南の方に住んでいるし、和歌山は距離的に近いな、と思った。
ググると、トルコ記念館なるものがあることを知った。
あらためてグーグルマップで見ると、車で高速を使っても所要時間 約3時間(ツイート見ると休憩含め3時間半)。
運転時間約三時間半
遠いね pic.twitter.com/CDWFlxfDDS
— カイドー (@kaido_shochu) February 24, 2018
かなり遠い。
しかし気になるし、休日は猫と遊ぶくらいしか予定が無い。
一念発起し、和歌山県は串本町まで行ってみることにしたのである。
目次
トルコ記念館
トルコ記念館とは
和歌山県串本町にトルコ記念館はある。
ここに行けばトルコと日本(当時はオスマン帝国と大日本帝国)の友情がなぜ起こったかがわかる。
しかし事前の調べから、わかってはいたけれども、遠い。
本当に遠かった。大阪からは遠いです。
最寄りの駐車場に車を停め、しばらく歩くと記念館が見えてくる。
この記念館では難破したエルトゥールル号のこと、当時の背景・状況などの詳細が細やかに書かれている。
紹介ページとマップを載せておこう。
オスマン帝国のエルトゥールル号の難破と大日本帝国について
1890年(明治23年)9月16日夜、オスマン帝国の船エルトゥールル号は和歌山の串本町の樫野崎灯台の岩礁で難破した。
さかのぼること同年6月、オスマン・パシャ海軍少将を乗せたエルトゥールル号は大日本帝国へやってきた。
当時没落気味であったオスマン帝国は、かたや欧米列強と肩を並べんと奮闘していた大日本帝国へ特派使節を派遣した。
大日本帝国は歓待した。
台風シーズンであり、海は大荒れだと大日本帝国側は忠告したが、エルトゥールル号は帰国のため出港してしまった。
その翌日の真夜中に難破する。
結果的に、エルトゥールル号は大破し、乗員の内587名もの死亡・行方不明者を出してしまった。
幾人かの生存者は必死に樫野崎灯台の明かりを目指した。
灯台横の官舎にトルコ人が血だらけになって訪問してきたという。
その後、宿舎にいた日本人が町内に連絡。
町の総出で救助活動を行い、それは明け方まで及んだという。
現場は悲惨な状況であったが、生存者69人というのは当時の状況から見れば、びっくりするほど多いのかもしれない。
その後、大日本帝国側は生存者を本国まで送り届けることを決断。
日本の軍艦金剛と比叡の2隻の軍艦でオスマン帝国まで送ったという。
ちなみにこれらの船には、日露戦争で活躍した東郷平八郎の参謀で、坂の上の雲の主人公でもある秋山真之が乗っていた。
トルコと日本のもう1つの友情エピソード
そして、このエルトゥールル号に端を発した、もう一つのトルコと日本の友情エピソードも知ることが出来る。
1985年(昭和60年)。中東ではイラン・イラク戦争が起こっていた。
3月某日、突如サダム・フセイン大統領が「今から48時間後、国内を飛ぶ外国の飛行機は全てミサイルで撃ち落とす」と宣言したのだ。
日本政府は対応に遅れ、在イラン邦人は絶望した。
その時、飛行機を飛ばしてくれ、日本人を全員救助してくれたのはトルコだったのだ。
トルコ側はこう語る。「エルトゥールル号のお返しですよ」と。
僕は昨今流行りの「日本すごかった」を語りたいわけではない。
その頃必死にもがいていた日本とトルコ。
ひょんなことから事件が起き、国と国との友情が生まれ、現代にもつながっている。
これは歴史を学ぶ意義の1つではないだろうか。
だから僕はフィクションより歴史のノンフィクションが好きなのだ。
まさに、事実は小説より奇なり。
樫野崎灯台
さて、このトルコ記念館を後にして、しばらく岬の方へ行くと慰霊碑や記念像、樫野埼灯台や旧官舎などがある。
樫野埼灯台は日本最古の石造り灯台で現役。
中は入れないが、螺旋階段を登って海を一望出来る。
また官舎は一般公開されていて、当時のまま残っている部分も多くて面白い。
日米修交記念館
実は目的地ではなかったのだが、もう一つ興味深い建物がトルコ記念館からさほど遠くない場所にあった。
それが日米修好記念館である。
正直なんの記念館かわからなかった。
多分、何かペリーに関することとかだろう、と思い、せっかくだからと行ってみたのである。
トルコ記念館行ったら近くに日米修好記念館ってのがあって、そっちにも行ってきた
ビッドルやペリーよりも前にアメリカ船が日本にきていた、なんて初めて知りましたわ pic.twitter.com/B1rkwFyDvZ
— カイドー (@kaido_shochu) February 24, 2018
結果的には、ここも相当面白かった。
実はペリー来日60年前に アメリカ商船がなんと日本に上陸していて、その事実を記録ベースで紹介した建物であった。
日米修交記念館とは
紹介ページはこちら。以下にマップをば。
2隻のアメリカ船の上陸
1791年、ラッコの毛皮で一儲け出来るという話があったらしく、アメリカのレディ・ワシントン号とグレイス号が中国からの帰路の途中、日本にやってきた。
場所はまたもや和歌山県串本町(当時は大島)。
日本に来た二隻のうち、一方の船長の名はケンドリックさん
彼の使命は太平洋沿岸拠点設立、アメリカ当西岸を結ぶ北西航路が実在するかの確認、北西海岸・中国間での毛皮取引(当時相当高値で売れた)の開始であった
— カイドー (@kaido_shochu) February 24, 2018
初めて見るアメリカの船に困惑する紀伊の人々。
最初は言葉が通じず、 苦労したらしい。
だがアメリカ側の中国人乗組員の漢文でのやりとりが功を奏し、いくらか日米間の緊張が緩和された。
途中イギリス勢によってマカオで捕まったり、何とか逃れて船を進め、沖縄がみえたけど危険と判断し北上した末、着いたのは紀伊大島串本
当然不審に思う島民。警戒心を解くため、ケンドリック船長は中国人船員に頼んで中国語の手紙を書かせた
そこで島民の緊張が幾分和らいだ
— カイドー (@kaido_shochu) February 24, 2018
その晩は日米間の宴会があったという。
ただ時代背景は鎖国。聞きつけた幕府側は当然攘夷の令を出したと言う。
そこで紀伊藩はアメリカ船に帰ってもらうよう説得し 彼らは本国へ帰っていた。
それ以降外国船打払はより強化され、現にペリー来航前のビッドルやラクスマンも日本に上陸することができなかった。
島民を受け入れ、船上の宴
しかしそれも束の間、鎖国下でのやりとりだったため、お上から打ち払い令が出る
そうしてケンドリック船長達は島を後にした。その後日本の沿岸警備がより一層強化された
— カイドー (@kaido_shochu) February 24, 2018
その後イギリスのコルネット船長、ロシアのラクスマンが日本にきているが、いずれも強く拒否されている
歴史資料において、囚われの身になることなく10日ほど滞在し、地元民と交流した記録はこれ以外には無いという
— カイドー (@kaido_shochu) February 24, 2018
出口さんの「人・本・旅」について
このアメリカ船の話は、実は本が出版されていたみたいで、結構有名なのかもしれない。
ただ、やっぱりこうやって旅をして、フラッと気になったところ行く。すると自分の知らない知見を得ること出来、特にここ最近非常に楽しい。
僕の尊敬する人の一人に出口治明さんがいらっしゃる。
ライフネット生命を立ち上げたり、また大変な読書家で歴史家でもある方だ。
著書も数冊読んだことがあり、かなり影響を受けている。
よく出口さんがおっしゃるのは「学びは人・本・旅から」ということ。
実を言うと、僕は人や本で知識を得るというのはすぐピンと来たが、いまいちこの旅で勉強するというのは腑に落ちなかった。
しかしここ最近の愛媛旅行や今回の和歌山旅行など、思いがけない発見があり、特に歴史への造詣を少しずつ吸収出来ている。
出口さん@p_halが色々な所で「知識は人・本・旅から」とおっしゃっている
人・本というのは実感していたのだけど、旅は前までイマイチピンときてなかった
だけどようやく最近「旅」という点がわかってきた。これはなんとも嬉しい発見である pic.twitter.com/q9TQYWpwTp
— カイドー (@kaido_shochu) March 4, 2018
思うに、出口さんのおっしゃる「人・本・旅」は、もちろん各々単体でも学べる。
だが、例えば人×本、本×旅、人×旅、という様な組み合わせになってくると、 その学びの量や吸収が非常に大きくなってくると思う。
せっかく関西の玄関口関空が近いので、金は無けれども細々と旅してみたいと思う。
次は廃仏毀釈で壊れた地蔵でも見に行こうかな。
糸終